「嗜めるという技量」の必要性

今日はこれから私の悩みを書いてみる。

私の場合、ゲームのインスト(ルール説明)やマスターをする機会が非常に多いのですが、これをやるうえで、それに必要な技量は何か?

もちろん、人によって得手不得手があるので、できるかぎり得意な方法を用いるのがベストであるのは間違いない。
話の流れとプレイの流れをできるかぎり一致させる組立て方。とにかく説明を聞いてもらわないといけないので「聞かせる」話術。などなど、まあ、いろいろ考えられる。

私に関して言うと欠けているもののひとつが、おそらく標題の「窘めるという技量」である。元々声が大きいうえに、態度はけっこう高圧的な面があるので、私に「窘められた」人は怒られているんじゃないかと感じてしまっているのではないだろうか?

私が窘めるとき。いくつか類型がある。各々に重なる部分もある。


同じことを何度も(特にルール的に)間違えるとき。
間違いは誰にでもあるし、私だってしょっちゅう間違う。だから、間違うこと自体を責めるつもりはない。一緒に遊んでいるのだから、そんな権利すら当然ない。ただ、これを続けざまにやられるとさすがに他のプレイヤーがかわいそうだ。非電源ゲームは複数の人間が卓を囲んで遊ぶことが多いので、そのひとりが他の全員の雰囲気をぶち壊しかねないことをわかってくれたらいいな。そう思って嗜める。

ある人が長く考えるとき。
ゲームには論理思考が必要なものがけっこうある。私はこういった論理ゲームは苦手だが、それでも考えなしでプレイすることはさすがにないので、私だって当然手番に考え込んだりする。だから考えることを否定するつもりはない。だが、特定の人間が他に比してきわめて長く手番の時間を消費することは、プレイが冗長になってだれやすく、さすがに他のプレイヤーがかわいそうだ。こういった「長考」に明確な基準はないが、私はある目安を持っている。ある人ひとりと、その他のプレイヤーの考慮時間の合計が同じくらいになったら、私は嗜める。

うるさいとき。
うるさいと言えば、おそらく音量からするとたいてい私が一番うるさい。(苦笑) みんな、ごめんね。でまあ、この場合の「うるさい」というのは、余計なことを言うことである。よくあるパタンは自分の言い訳を延々と語る人。プレイヤーたちはゲームをしにきているのであって、特定の人の言い訳を聞きに来ているわけではない。手番外の不規則発言を聞いて楽しいわけではない。こういう人はひとつ上の「長考」にもつながりやすい。それで、嗜める。

投げやりなとき。
途中で勝てる見込みがなくなったりするゲームがある。勝てなくなったら士気が下がる。それは理解できる。私みたいなおちゃらけ(死語)ゲーマーだって、できたら勝ちたいから、勝てる見込みがなくなると、やっぱり、やる気が落ちる。だからそのこと自体を否定するつもりはない。ただ、ここで考えてほしいのは「他のプレイヤーはまだ勝つ見込みがある」ということである。他のプレイヤーの邪魔をするなとは言わないし、「キングメーカー」みたいなことをするなというつもりはない。その人は「どうせ勝てないしこうしてやる」と軽く言っているつもりなのだろうが、聞いた方の立場だとけっこう堪える場合がある。その人は勝てる可能性があるのにそれでふいになるのだから。「黙ってやれ」と嗜めることがある。

私はドイツゲームをあまりプレイしないほうだと思うのだが、ドイツゲームにはたくさんの利点がある。そのひとつがプレイ時間が比較的短いゲームが多いということである。勝てる見込みがなくなったとしても、それで今日が終わるわけではない。次もある。わざわざ、人をだれさせたり、無用(言わでも)の恨みをかうことで、その次のゲームの雰囲気も悪くなることもある。できれば切り替えてほしい。ある程度は雰囲気も大事にしてあげてほしい。そう願っている。だから嗜める。

わかってもらえたるかどうかはわからない。それでも私は嗜めることをやめるつもりはない。みんなでできるだけ楽しい時間を過ごしたいから。

冒頭の話に戻る。私に欠けているのは「嗜める」という技量である。私が嗜めると、たいていの場合、窘められた人は「私に謝る」。つまり私が「怒った」から、私に謝ったのであろう。実際、私が本当に怒っていることはまずない。私はそれこそゲーマーな人から、ゲームを知らない一般の方まで、ゲーム経験という見地からは非常に幅広い層相手にインストをするのが常態なので、「そんな人間はざらにいる」ことを知っている。だから、そう腹はたたないのである。

ただ、結果として相手に私が怒っていると思われて、私に謝られたのでは、「窘めた」ことにならない。これまで書いてきたようにその人が本当に謝る相手は「他のプレイヤー」なのである。

誰かこの「窘めるという技量」を譲ってくれないかなあ。(sigh)